LOGIN明治十五年、春。
東京の街は、近代都市へと変貌していた。
蘭学舎は、評判の教育施設となっていた。
卒業生たちは、教師、看護師、事務員として社会に出ていった。
お蘭は三十一歳になっていた。
彼女は、もう吉原の蘭太夫ではなく、蘭学舎の桐野蘭香だった。
桐野。彼女は、母の姓を名乗ることにした。父の姓ではなく、母の姓を。
ある日、一人の男が訪ねてきた。
桐野誠吾だった。
彼は、以前より老けて見えた。
「蘭…… いや、蘭香」
「兄上。お久しぶりです」
二人は、小さな応接室で向かい合った。
「お前の噂は、聞いている」
「はい」
「立派なことをしているそうだな」
「……ありがとうございます」
誠吾は、しばらく黙っていた。そして言った。
「すまなかった」
お蘭は、驚いた。
「兄上……?」
「私は、間違っていた。お前を、消そうとした。それは、私の傲慢だった」
誠吾の目には、後悔があった。
「お前は、血統ではなく、自分自身の力で立った。それは…… 私にはできなかったことだ」
「兄上……」
「母上も、お前を誇りに思っている。そして、私も……」
誠吾は、言葉を詰まらせた。
「私も、妹を誇りに思っている」
お蘭の目から、涙が溢れた。
「ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは私の方だ」
誠吾は立ち上がった。
「お前が、あの文書を焼いてくれたこと。私は知っている」
「……橘様から?」
「そうだ。彼は、お
明治十五年、春。 東京の街は、近代都市へと変貌していた。 蘭学舎は、評判の教育施設となっていた。 卒業生たちは、教師、看護師、事務員として社会に出ていった。 お蘭は三十一歳になっていた。 彼女は、もう吉原の蘭太夫ではなく、蘭学舎の桐野蘭香だった。 桐野。彼女は、母の姓を名乗ることにした。父の姓ではなく、母の姓を。 ある日、一人の男が訪ねてきた。 桐野誠吾だった。 彼は、以前より老けて見えた。「蘭…… いや、蘭香」「兄上。お久しぶりです」 二人は、小さな応接室で向かい合った。「お前の噂は、聞いている」「はい」「立派なことをしているそうだな」「……ありがとうございます」 誠吾は、しばらく黙っていた。そして言った。「すまなかった」 お蘭は、驚いた。「兄上……?」「私は、間違っていた。お前を、消そうとした。それは、私の傲慢だった」 誠吾の目には、後悔があった。「お前は、血統ではなく、自分自身の力で立った。それは…… 私にはできなかったことだ」「兄上……」「母上も、お前を誇りに思っている。そして、私も……」 誠吾は、言葉を詰まらせた。「私も、妹を誇りに思っている」 お蘭の目から、涙が溢れた。「ありがとうございます」「いや、礼を言うのは私の方だ」 誠吾は立ち上がった。「お前が、あの文書を焼いてくれたこと。私は知っている」「……橘様から?」「そうだ。彼は、お
明治九年の冬は、東京に珍しく大雪が降った。 吉原の街も、白一色に覆われていた。 お蘭は、橘との約束の場所に向かっていた。 浅草の小さな茶屋。二人がよく使う、密会の場所だった。 橘は、すでに待っていた。「蘭さん、聞きました。扇屋と交渉したそうですね」「はい。お絹様は、私の年季を終わらせることに同意してくださいました」「しかし、借金は残る」「はい。総額で八百両ほどです。途方もない額ですが…… 働けば、いつかは返せます」 橘は、複雑な表情をした。「蘭さん、もう一つ聞きました。桐野誠吾が、あなたを身請けしようとしたと」「……ご存知でしたか」「彼は私の上司です。彼があなたの兄だとは知りませんでしたが」 橘は続けた。「彼は、あなたの存在を消そうとしている。それは、政治的な理由だけではないようです」「どういうことですか?」「彼は…… 恐れているのです」「何を?」「あなたを」 お蘭は、その言葉の意味を考えた。「私が、兄の地位を脅かすから?」「それもあるでしょう。しかし、それ以上に…… あなたという存在そのものが、彼の価値観を脅かしているのです」 橘は説明した。「桐野誠吾は、血統と家格を何より重んじる男です。彼にとって、妹が遊女であるという事実は、耐え難い屈辱です。しかし同時に、その妹が自分以上に優秀だという事実も、耐え難い」「……そうですか」「蘭さん、あなたはどうするつもりですか?」「まだ、分かりません」 お蘭は正直に答えた。「私は、兄を許すべきでしょうか? それとも、戦うべきでしょうか?」「それは、あなた自身が決めることです」
明治八年の秋は、不穏だった。 政府は士族反乱の危機に直面し、経済は混乱していた。そして遊郭をめぐる論争も、再び激化していた。 お蘭は二十四歳になっていた。 吉原では、彼女は伝説的存在になっていた。その美貌と知性は、もはや誰もが認めるところだった。 しかし、彼女の内面は揺れていた。 ある秋の夜、お蘭の元に見知らぬ女性が訪ねてきた。 五十代ほどの、上品な身なりの女性だった。「蘭太夫…… 初めまして」 女性の声は震えていた。「どちら様でしょうか?」「私は…… あなたのことを、ずっと探していました」 女性の目から、涙が溢れた。「私は、桐野雪乃と申します。そして…… あなたの、本当の母です」 お蘭の世界が、音を立てて崩れた。「母……? 私の母は、信州の農家の……」「それは、養母です」 雪乃は震える声で続けた。「あなたは私の娘です。そして…… ある武家の血を引いています」 雪乃が語った物語は、衝撃的だった。 彼女はかつて、幕府の高官・桐野左京の妾だった。 左京には正室との間に息子がいた。しかし彼は雪乃を愛し、彼女との間に娘を設けた。それがお蘭だった。 しかし、幕末の政治的粛清の中で、左京は失脚した。 雪乃とお蘭は命を狙われた。 雪乃は苦渋の決断をした。赤子のお蘭を、信州の農家に預けたのだ。「あなたを守るためでした……」 雪乃は泣き崩れた。「しかし、その農家が破産し、あなたが遊郭に売られたと知った時…… 私は、死にたいと思いました」「なぜ、今まで…&hellip
明治五年の夏は、異常に暑かった。 江戸改め東京の街には、西洋文明の波が押し寄せていた。煉瓦造りの建物、ガス灯、鉄道。すべてが新しく、すべてが混沌としていた。 吉原もまた、変化の只中にあった。 お蘭は二十一歳になっていた。 「蘭の君」として、彼女は吉原随一の花魁と称されるようになった。その美貌と知性は、政財界の要人たちを虜にした。 しかし彼女の真の影響力は、表に出ないところにあった。 お蘭は、情報のハブになっていた。 彼女の元には、新政府の官僚、実業家、外国人顧問、新聞記者、あらゆる階層の人間が集まった。彼らは酒を飲み、本音を漏らし、秘密を語った。 お蘭は、それらを記憶した。分類した。関連付けた。 そして必要に応じて、適切な人物に適切な情報を流した。 彼女は意図していたわけではない。しかし結果として、彼女は東京の裏側で重要な役割を果たすようになっていた。 「蘭さん、あなたは恐ろしい人だ」 ある夜、橘が言った。「恐ろしい?」「あなたが提供してくれた情報のおかげで、私は何度も政治的危機を回避できた。あなたは、おそらく自覚していないでしょうが、この国の政治に影響を与えている」 お蘭は静かに微笑んだ。「それは、買いかぶりというものです」「いや、本当です。あなたは…… 稀有な才能の持ち主だ」 橘は真剣な表情になった。「蘭さん、もしあなたが男性だったなら、間違いなく政府の要職に就いていたでしょう。それができないのは、ただあなたが女性であり、遊郭にいるからに過ぎない」「では、私はどうすればいいのでしょう?」「……分かりません」 橘は苦しそうに答えた。「廃娼論争は、暗礁に乗り上げています。維持派の力が強すぎる。当分、遊郭制度は続くでしょう」「では、私は一生ここに?」「いえ、あなたの年季は&hel
時代が動いていた。 慶応四年、後に明治元年と改元されるこの年、日本は激動の渦中にあった。 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、江戸城は無血開城された。二百六十年続いた徳川の世が、音を立てて崩れていく。 吉原も、その変化の波に飲み込まれていた。 幕臣たちは没落し、新政府の官僚たちが台頭した。客層が変わり、金の流れが変わった。 そして十七歳になったお蘭は、その変化を誰よりも敏感に察知していた。 「蘭、ちょっといいかい」 ある春の午後、葵太夫がお蘭を呼んだ。 葵は三十歳になっていた。相変わらず美しかったが、顔には疲労の色が濃くなっていた。「何でしょうか」「今夜の客なんだけどね…… 新政府の役人らしいんだ。気をつけてほしいことがあってね」「へえ」「この人たちは、幕府の連中とは違う。もっと…… 危険だよ」 葵の声には、珍しく緊張が混じっていた。「どういう意味ですか?」「理想に燃えてるのさ。新しい日本を作るんだって、本気で信じてる。そういう人間は、怖いんだよ。何をするか分からない」 お蘭は頷いた。彼女もまた、客たちの変化を感じていた。 幕府時代の客は、遊郭を「息抜きの場」として扱った。しかし新政府の官僚たちは違った。彼らは遊郭でも政治を語り、理想を語り、時には女郎たちに意見を求めた。 それは、新しい可能性でもあった。 その夜、お蘭は初めて、運命を変える男と出会った。 名は橘誠一郎。二十八歳の新政府官僚だった。 背が高く、鋭い目をした男だった。西洋式の髪型にし、洋服を着ていた。新しい時代の象徴のような人物だった。「これはこれは、葵太夫。お久しぶりです」 橘は丁寧に挨拶をした。「橘様、お越しいただきありがとうございます」 葵が応じた。その横で、お蘭は静かに酒を注いでいた。「ほう、新しい振袖新造ですか」 橘の視線が、お蘭に向いた。「へえ。蘭と申します」「蘭…… いい名だ。清楚でありながら、気品がある」 橘は微笑んだ。しかしその目は、お蘭を女として見ているのではなかった。まるで、興味深い研究対象を見るような目だった。「蘭さん、あなたは字が読めますか?」 突然の質問に、お蘭は戸惑った。「少しだけ…… 読めます」「ほう。誰に習ったのです?」「独学です。客人が置いていった新聞を、こっそり読んでおりました」 橘の目が
プロローグ 灰の記憶 灰が舞っている。 明治九年、冬の夕暮れ。墓地に立つ女の手から、黒い紙片が風に溶けていく。燃え尽きた過去が、赤く染まる空へと昇っていく。 女の名は蘭香。かつて吉原で「蘭の君」と呼ばれた花魁である。 彼女の指先には、まだ熱が残っている。母の手紙を焼いた熱が。自分の出生を証明する唯一の文書を灰にした熱が。 なぜ彼女は、自らの正当性を証明する武器を手放したのか。 その答えは、十三年前の冬に始まる。十二歳の少女が、初めて地獄を見た日に。◆第一章 売られた日―一八六三年、冬 雪が降っていた。 信州の山村から江戸への道は、凍てついた白一色に覆われていた。荷車の軋む音だけが、静寂を破っている。 荷台の隅で、お蘭は震えていた。寒さのためだけではない。恐怖が、十二歳の身体を内側から凍らせていた。「泣くんじゃないよ」 隣に座る女衒の声は、妙に優しかった。それがかえって不気味だった。「いい所に行くんだからね。吉原っていう、江戸で一番華やかな場所さ。お前みたいな器量よしなら、きっと可愛がってもらえるよ」 お蘭は何も答えなかった。答える言葉を知らなかった。 三日前まで、彼女は普通の農家の娘だった。貧しくとも、家族がいた。父と母と、幼い弟が二人。 そして飢饉が来た。 凶作は二年続いた。村人の半分が餓死した。お蘭の家も例外ではなかった。ある朝、父が言った。「蘭。お前には辛い思いをさせるが……」 父の目には涙があった。母は泣き崩れていた。弟たちは、何が起きているのか理解できず、ただ怯えていた。「弟たちを生かすためだ。許してくれ」 翌日、女衒が来た。父は五十両を受け取った。お蘭は、自分の値段を知った。 荷車が止まった。「着いたよ」 女衒の声で、お蘭は現実に引き戻された。目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。 大門。 吉原遊郭の入口は、まるで異世界への扉のようだった。昼間だというのに、無数の提灯が灯り、三味線の音色が聞こえてくる。華やかな着物を纏った女たちが、格子の向こうで微笑んでいる。 しかしお蘭には、その微笑みの下にある絶望が見えた。「さあ、降りな」 女衒に促され、お蘭は荷台から降りた。足が震えた。逃げたかった。しかし、どこへ? 故郷には戻れない。戻れば、弟たちが死ぬ。 彼女は歩き始めた。大門をくぐり、遊